海のある町、山のある町。
引っ越し完了。
してから、もうすでに1か月以上経つ。
ふたりしてインフルエンザになったり、ふたりして無職を謳歌したり、片づけたり、けんかしたり、落ち込んだり、しょんぼりしたり、励まされたりした3月もあっという間に過ぎて、4月。
今年は春の訪れを、鼻のむずむずと、日の光のほがらかさにて知る。
1か月で色々な人と話して、どこでも人は生きているのだなあと思う。
ビルのない景色は気持ち良い。
特大のだいこんはみずみずしい。
今日はドリアを作った。
夜は干物を焼いた。
取り留めもない日々があふれるよう。
手をきる。
2/2
昨日の朝、凍ったベーグルを少しだけレンジで解凍して、力を込めてスライスしていたら、指までいってしまった。
今日、痛みが退かないので病院へ行ったら、縫うことに。麻酔の注射はすこぶる痛い。病院の先生は立って歩けばものにぶつかるような、不器用というか慌ただしいような人だったから、服と私の指を一緒に縫ったりしないだろうかと心配になったけど、大丈夫だった。
病院へ行く前に、あまりにも痛い痛いといって、包帯をぐるぐる巻きにしたりしていたら、怪我に慣れている夫が笑っていた。
なおぐるぐる巻きになって帰ってきたらさらに笑っていた。
リソウのセイカツ
休日。
朝、思い立って文旦のような果実を剥く。
文旦よりも一回りほど小さいそれの皮は驚くほど分厚く、爪では歯が立たないので放射線状にナイフの切れ目をいれる。皮を剥くと、さらに文旦よりふたまわりほど小さい。
一般的な薄皮よりもよほど厚みのある薄皮を剥けば種がある。小さな実のひとかたまりに平気で二三、ごろごろと。剥き終わればあまりにも小さな収穫。
果実はなにも、人に食べられるためにあるわけではないのだ。そんなようなことを思って、朝から不思議な心持ちがする。
なんとなく、小さな頃に、壁の隅を見つめながら宇宙の途方もない大きいことを思って、重力を失った心地になった感覚と似ている。
朝食を買いに近くのパン屋さんに。
売る本、持っていく本の選別。
二人してだらだらと過ごしながら、何かと足の踏み場のない家で、進行役のいない引っ越し準備。
■
1月28日
今日は仕事を休んで病院に。
先日から緩み始めた寒さがすっかりどこかへ行って、ふたたび腑抜けた気温の冬。
病院の近くのわんわん公園。
診察の後、夫と待ち合わせて梅田に行った。セルフサービスのコーヒースタンドで昼食をとる。
6人掛けの大きなテーブルで隣り合って座ると、照明のせいだか、いつもはぱっとしない一重のたれ目の瞳がきらきらしていてなんだか見とれてしまった。そんなことはお構いなしにサンドイッチをむさぼり食べる夫。むしろ、すすり食べる。彼は麺好きが高じて、なにかとすすりがち。
午後、服屋を巡る。収穫なし。
帰り道、今日も本屋に吸い寄せられ、一冊購入。
こんなことを言っては大変失礼に当たるのだろうけども、私はなんだか漱石が私にとって好みのタイプの男性な気がして、そんな恥ずかしくもばからしいことがきっかけで漱石の本を何度もくりかえし読んでいるような気がする。
普通の辛さ、という基準
仕事の途中に立ち寄った本屋さんで、古本を2冊買う。
日本語が亡びるときー英語の世紀のなかで/水村美苗/筑摩書房
茶話/薄田泣菫/岩波書店
近頃過去に誰かが薦めていた本や、誰かが好んだ本、ちょっとしたエピソードなどが頭をかすめるけれども、それを言っていたのは誰だったか思い出せず、少し考えて思い出すアハ体験が近頃多い。最終思い出すから良いものの、そしてアハ体験だからすっきり感も伴うものの、つまり色んなことを忘れがちになったということ?
薄田泣菫は、確か折口信夫が好んだ人であったと思う。
夜は前職の友人と食事。
笑いの耐えない人である。多分橋が転げても笑う。
私の引っ越しの話になると、引っ越し先の人口が気になるようで調べていて、それが神戸市の50分の1だと言って、笑っていた。
彼女はそういう風に笑っても、全部を愛してる風だからとても良い。